我輩は珈琲依存症である。
豆はもう無い。
ここは世田谷の住宅街、昔は活気があったと言われているが、そんな名残なんか一切感じさせない寂れた商店街が世田谷線の若林駅前にある。その大きく外れたところにかなざわ珈琲という珈琲屋さんが出来たことと、イラストレーターである友永たろさんの作品が展示されていることをSNSで知った時、とても驚いた。なんとボクと代表の自宅兼深海マザー本部から徒歩1分、チャリ15秒の距離だったからだ。
すると間もなく、深海繋がりのデンストーンさん(仮名)から、「明日にでもかなざわ珈琲に行ってください!急いで!」とメッセージが入る。なぜだ。
この辺りの住民はボクも含め、ただ「新しい」というだけで警戒心を強める閉鎖的傾向が強い。いきなり飛び込むようなことはせず、数日、数週間かけて店の前を何度も通り、ただの通行人を装いながら店内をチラ見してみたり、犬の散歩コースをねじ曲げて糞の始末をするフリをしながら覗き込んでみたりと、安全が確認できなければ店に入ることはない。
かなざわ珈琲で水族館巡りをテーマとしたトークイベントがあるという。これまた深海繋がりのピカさん(仮名)も遠路はるばる参加するというので、会いに行くついでに行ってみることにした。
緑道に面したテラスにある裏口側の背の高い柵の上から店内を覗き見すると、みなトークに夢中なのか真剣な表情が伺えるが、とても店に入れる雰囲気ではない。諦めて、じゃあピカさんはどこにいるのかとピョンピョン跳ねてみたり、乗って来たチャリを止め、ペダルに乗って立ちこぎの姿勢で柵の上からずっと覗き見をしていた。あ、いた。ピカさんが手を振ったので、イベントが終わるまで用を済ませながら待つことにした。
後で聞いた話だが、その様子を店内から見ていると、どう見ても変質者に見えたので通報しようか迷ったそうだ。ひどい。
イベントが終わり、裏口が開いた。ピカさんが駆け出してきて、かなざわ珈琲の方々に紹介してくれるという。既にお知り合いのようだ。すると、厨房から店主らしきご夫妻が出て来た。後に大活躍するかなざわ珈琲の店主の金澤政幸さん(以下マスター)とマスターワイフ(以下ワイフ)だった。
挨拶を交わすと、マスターは言い出した。「この前たまたまあそこ通りかかった時に”深海マザー”って表札見て、なんだっけと思ってデンストーンさんに聞いたら、ああ、”カップメンダコ”のとこですね、深海グッズ作ってるとこだって聞いたんです」
ボクはハッとした。あの表札はつい最近出したばかりだ。なにか胸騒ぎがする。それがこの世田谷という谷を海底谷へと変えるきっかけになるとは、この時は思いもしていなかった。
かなざわ珈琲の店内で、深海マザーの商品を扱っていただけることになった。近いのでとにかく納品が楽だ。梱包もせずにカゴやバケツなどに入れて持っていく。珈琲屋さんなのでお客さんの人目に触れることも多いし、大好きな珈琲も飲めて、さらにここでの飲食代は堂々と経費だと言い張れる(気分的に)。ボクにとってはよいこと尽くしでウヒャウヒャしていた。
マスターは、コーノ式珈琲認定アドバイザーで、珈琲業界では”生ける伝説”と呼ばれ、その手で淹れる珈琲は極上だ。さらには珈琲店をオープンする際の空間コーディネートまでアドバイスされているそうで、元大工さんということもあり空間と珈琲さえあればイベントを作ってしまえるクリエイターだ。
ボクはマスターの淹れる珈琲に魅了されていた。目の前で淹れてくれるパフォーマンスも楽しくて、飲み過ぎても気持ちが悪くならず、食欲も落とすことがないという点は素晴らしいと感じたが、なによりもボクはここの珈琲に依存しきっていた。たまには珈琲を抜こうと思って飲まずにいると、なぜか体調不良に陥るのだ。不審に思ってマスターに相談してみると、「別に怪しいものは入っていませんよ?」と言って怪しい笑みを浮かべながら厨房へ消えていく。絶対に怪しい。それ以来、珈琲の実演を見るたびに何か入れていないだろうかとよく見るようになったが、それらしきものを入れてる様子は全く見えない。怪しい。そして、挽いた豆も販売されてることを知り、粉を買って家でも自分で淹れることで禁断症状を抑えるほど重篤な珈琲依存症に陥っていった。
「次は深海のイベントやりたい!」とワイフが言い放ち、かなざわ珈琲のイベントで深海マザーのグッズ制作裏話のようなものを聞きたいと言う。まさかこのボクに登壇しろというのか。このボクの真の滑舌を知らないのか。もちろん知るはずもないのだが、マスターにも「深海マザーの工場見学ってできるんでしょうか」と意表を突かれることを聞かれ、とにかくそういうのは面白そうだという。しかし、ボクにはその面白さがさっぱりわからないまま、かなざわ珈琲は閉店を迎えることになり、企画もそのまま滅亡したかのようにみえた。
元々期間限定営業だったのは知っていたが、今は閉店なんて聞くだけで禁断症状が出てくる。一体これからどうすればいいというのだ。2人と珈琲はどこへ行ってしまうのだろうかなどと考えながら、最後にあの珈琲だけは飲み溜めしておかなければならないと思い、家から15秒走った。
ふぅ…と珈琲を補給し、打ち上げもあるとのことなのでまた来ますと帰ろうとしたら、「実はですね…」と言ってマスターも一緒にコソコソと外へ出てきた。「家具屋みたいで申し訳ないのですが諸事情により閉店は延期されました」「もしかして閉店セール詐欺のようなものでしょうか」「ええ、閉店詐欺です…知らせてしまった皆様にはなんと申し上げたらよいか…」と、なんだかボクがマスターを尋問しているみたいになってしまったが、それからその後もずっと、閉店は延長されていくことになる。
ボクは、引き続き珈琲が飲めると思ってうれしかったが、営業期間が延びるということは、深海イベント企画も一気に浮上してくることになる。企画は滅亡してほしかったというのが正直なところだったが、マスターの「深海マザープレゼンツでお願いします」という超高圧発言で、とうとう引き受けてしまったのだった。
打ち合わせが始まると、せっかく珈琲屋という空間があるので、深海グッズに加えて深海メニューもやろうということで盛り上がる。ワイフは深海生物に詳しかったが、マスターはほとんど知らないようだ。最初に前例として過去に渋谷の東急ハンズで「深海ラボカフェ」というのがあって、深海マザーもちょっとだけ口出しした熱水噴出孔をモチーフにした深海カレーが大人気だったという話をした。すると、マスターの背後から湯気が立ち上ぼり始めた。過去になにかあったのか、同じ「カフェ」としての対抗心からなのか、打倒を胸に体内珈琲豆の焙煎を開始されたようだ。ここからマスターの深海メニュー開発が猛烈に始まるのである。
マスターの手掛けるメニューは、クリエイターとしての基本的心得とも言える「あるものを利用して創る」「お金や手間を掛けずにいかにクオリティを高めるか」が徹底されている。持ち前の駄洒落感溢れる至高のお洒落メニューを、寝る間も惜しんで開発する姿はとても輝いていた。
ところで、ボクもメニューを考えていた。現代的で破壊力のあるメニューが1品欲しいと思っていたがなかなか思い付かない。マスターの駄洒落が強烈で、さらにちくわと生ハムを高頻度に食しているせいかその世界感から抜け出すことができずにいた。
突然代表が、「かなざわ珈琲に有麒堂さんの作品もあったらいいんじゃね?」と言い出した。有麒堂さんは深海陶芸家で老舗メンダコ屋として今も健在だ。置物を作られることが多いので盲点だったが、飲食といえば食器、食器といえば陶芸ではないか!そこへちょうど「鉄腕!DASH!!」でラブカが捕獲されたと聞いて、キタね、コレ。と思って、ちょうど有麒堂作品も販売されるということではるばる納品に来たさとるさんを捕獲。陶芸は、粘土の乾燥や焼成にとても時間がかかる。さとるさんも作陶する時間があまりないという。イベントまでの時間も少なくなっていたが、ボクには食器を作れないので猛烈に頼み込んでしまったら、なにか伝わってくれたのか作ってくれることになった。
それでデキタのが「ラブカーゼ」だった。最終的には「ラブカプレーゼ」という名前になったが、もちろんこれはマスターの駄洒落である。
この深海メニューを背負ってボクは一人、喋らなければならない。あまりの水圧で生きた心地がしない。会場が近すぎるのも仇となって夜逃げを真剣に考えたりもした。あれこれ考えてもしょうがないのでもうぶっつけ本番でいいやとか思ってたのだが、代表がそれを許すはずもなかった。
「恥かくのはキミなんだからね?」。まあそうだが、どうみても自分が恥をかくのが嫌だと言っているように聞こえる。作ったスライドに沿って練習を始めてみるも、最初なんか声も出ないし、口も動かない。言葉も出ないし、間が空いてばかりだ。20分で話すべきところが1時間も掛かる。その上、話していると練習だというのに緊張で口が乾いてニチャニチャしてきたり、喉になにか引っ掛かるので咳払いばかりしている。
苛立ちを隠しきれなくなった代表は、何を思ったのかとうとう自ら喋り始めてしまった。ボクはマイクを取り上げられ仕方なく聞いていると、なんだか教育者が生徒に教えているような口調でまったく趣旨に合っていなかった。
文字通り、話にならない。
代表も自分で向いてないことに気づくとすぐに放り投げ、「はい、次は場所を変えて風呂場でやってみて」とか「ちょっとこの録音聞いてみろよ酷いぜ」と盗聴まがいなことをして聞かせたり、ストップウォッチを持ったシンクロの井村コーチ並みの厳しさで、「プレッシャーなんてとことん感じればええねん、そうすりゃ感じたってなんにもならないことに気がつくわ!」という感じでボクを鍛え上げていった。この人は昔、ダイビングインストラクター養成時代に同じような鍛え方をされたそうだが、これがなかったら、ボクはきっと今ごろこの世田谷の家にはいなかっただろう。
当日は、昼の部、夜の部と2回もこなさなければならない。会場に着くと、空間は緊張に包まれていた。マスターとワイフは黙々と準備を進め、ボクは孤独だったが心は落ち着いていた。イケる。
昼の部は定員の半数程度の参加者で、SNSのフォロワーさんや取り引き先の方が来られていた。初対面の方だけだったのでやりにくいと思いきや、なんと、そのままそつなくこなしてしまったのだ。イケた!やった!やったよコーチ!(ブワッ キラキラキラキラ)
夜の部まで少し時間があり、マスターも「楽屋に戻ってもいいですよ」と言ってくれたので、ちょっと家に帰ることにした。「なんとかデキタよ」と報告すると、「まあアタシのおかげだろうね、金よこせ」とたかりながら、なにかの支度をしている。まさか参加するつもりなのではないだろうか。代表はボクが家を出る時までは「今日はムリだから」と断言していたので、さすがにこれはムリだなと思って、遠くからこのために来られるお客さんへの言い訳も用意していたぐらいだったが、急遽、代表がチャチャを入れに参加することになった。
夜の部は、なんと超臨界満員御礼。椅子が足りなくなりそうだった。実は、イベント告知後である1ヶ月前から開催1週間前まで、「ご予約者3名のみ固定」が続いていたので、これはただの飲み会になるな…と思っていた。それが、顔見知りばかりで昼とはまったく違った空間になったのはうれしかった。さらに、友永たろさんと有麒堂のさとるさんまで来襲されて、まさにこれは理想的な深海クリエイタードリームであったがしかし、
やりにくい
知っている人が多いというのはこういうことなのか。後ろの方から代表がこちらを睨み付けているような気がする。見ると実際に睨んでいた。イカン、キンチョーしてきたお。。なぜか右足のふくらはぎが今にもつりそうになっている。ヤバイ。椅子から立ち上がれない。
すると、知ってか知らずか、マスターが厨房から出てきてボクのマイクにラップでダイオウイカッターをくくりつけ始めた。
助かった
ありがとう、マスター。
これでイケる。
友永たろさんを交えて始まったトークショーだったが、たまたま前日になって入れた1枚のスライドが、たろさんの核心に触れてしまうというアクシデントがあり、終了後にボクがイカの研究をしたいという女の子に進路相談を受けるというアクシデントがあったが、なんとか最後までやり遂げることができて本当によかった。コーチも、「練習してよかったでしょ?」と笑顔をみせていた。
お客さんたちは皆、世田谷線に呑み込まれてどこかへ消えていた。深海マザーの2名とかなざわ珈琲の2名の間で夜が更けていく。4人ともやりきった感で魂が放出され始めていた。ワイフが切り出す。「また次もやりたいですね」「もうネタは出し尽くしました」「えーじゃあ”深海マザーの休日”とかどうですか?」「それ誰がおもしろいんですか」という会話で幕を下ろした。
テーブルの上には食べきれなかった大量の「ちーくわーむ」が残っている。試作段階からずっと食べ続けてきたメニューだ。もったいないので、ぜんぶ食べて帰ろうと思って挑戦したが、さすがにしょっぱくなってくる。生ハムのしょっぱさが、チーズとちくわでは中和されないのだ。次第に塩分で唇がシワシワになってきているのがわかる。水…水が飲みたい…。見渡すと烏龍茶と水に見えるものがある。人のだけどいいやと思って口をつけたらウイスキーと焼酎だった。水…。ワイフが飲み物を持ってきてくれた。一瞬女神に見えたが入っていたのはホット珈琲だった。マスターは寝る前にも珈琲を飲むというので、体液にはきっと、珈琲が流れているのだろう。
もう、ちくわなんて見たくもないと思うも、翌々日から北海道へ行くというマスターから、処分に困った6本入りのちくわを3袋いただいて帰宅するのであった。
店舗情報
かなざわ珈琲世田谷店
東京都世田谷区若林5-14-6 若林ゆうクリックビル1F
電話:03-6804-0990
営業時間:11:00〜18:00
2018年4月まで営業予定
不定休(たまにマスターが不在時あり、営業日カレンダー要チェック)
かなざわ珈琲世田谷店Facebookページ
友永たろ作品、有麒堂作品、深海マザー作品、展示・販売しています
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