準備の追い込みに差し掛かると、猛烈に降り注ぐ雨が、自宅の少し掘り下げられた駐車場を、田んぼと勘違いしているかのように潤していく。いくら水をかいたって止まない限りは田んぼは田んぼである。田んぼなのに何も実らせることなく、雨は止み、自然に地底へと消えていく様をただただ見ているだけだったが、イベント当日を迎えると、東京湾を震源とする縦方向への一撃がすべてを吹き飛ばしたように感じた。「オワタ・・・・・・」。恐怖に襲われ、瞬間的に脳裏に浮かんだのはこの数ヶ月のことだったが、時間の経過と共に「オワタ」のは準備だったんだと理解し、それと同時に浅い眠りに落ちていた。
おはようございます。
イベントごとになると、なんだかギョーカイを気取りたくなるのか、夕方なのに夕方のあいさつをしなくなる。頭を下げた相手は、飛び入り登壇予定の世界的なスケーリーフット研究者、Chong Chen さんだった。「異質の天才」とか「華麗なる一族の末裔」とか様々な噂を聞いていたが、「ドゥフ・・・ドュフフフフ・・・」と実際には発せられていないボクの洗脳された心の声と共に入って来られると、一目見ただけで噂通りの方だと感じた。強烈なヲタの香りに紛れて、ある種の品があり、やさしさや爽やかさまで感じられた。名刺を差し出すと、返ってきたのは所属機構公式のものではなく、少し模されたものに熱水噴出孔に生息する貝の写真が刷られていた。こういうのも許されるのですねと訊くと、「デュフ・・・」と満面な笑みで応えてくださった。それからは気が合ったのか、ウチの代表と深い谷間へ堕ちていったその後のことは知らないが、檀上に上がった際の彼のプレゼン「スケーリーフットの歴史」は凄まじいものがあった。スケーリーフットの新種記載がなぜこんなにも長引いたのか、それにまつわるエピソードを、半ば役者や声優のような口調でメリハリのある語りを続け、声が頻繁に裏返るほどの熱弁となった。声が裏返るのは絶好調の証だそうだが、それは会場に来られたお客さん達の反応が一番分かりやすく教えてくれた。
おはようございます。
高井研さんが扉を開けて颯爽と入ってきた。やはり今回は、対談相手が対談相手だけに、テーマがテーマだけに、厳しい表情で「知ってる」とだけ言って控室へ消えていった。高井さんにとって、「海に降る」という作品がどんなものなのか、後で感じさせられる事になるが、控室では徐々に徐々にいろいろ掴めてきたような様子で、大好きな野球中継を観ながらリラックスされていった。会場は新宿にある Naked Loft という所で、様々なイベントを消化しながら「主催者の求める物を揃えていったらこうなった」というような設備らしく、本当にこのようなイベントを開催するには何もかもが揃っていて何も申し分のない会場だったので、主催者としては前回は出来なかった演出的な事もやってみたかったが、「そんなんいらん」と却下されるも代表が食い下がり、最終的には「まぁやってもええで」と主催者のワガママを通してしまっていた。派手めな演出でステージに躍り出ると、俗に「高井節」と呼ばれるしゃべりとスライドのハーモニーで奏でられるリズム感溢れるトークアートで客席が爆笑の渦に巻き込まれていく様を見ていると、さすがとしか言いようがなかった。そんな中でも笑いだけでなく、プスリと核心を突かれるような場面が必ずあるのだった。今回は「プロフェッショナル」についてだった。高井さんは国の研究機関に所属されてるが、「国から依頼された仕事は120%返したる。その代わりそれをやったらやりたい事やらしてもらう。しかもそれは苦しみながらじゃなくて楽しくだ。二者択一はあり得ない。我々は両方やる。それがプロフェッショナルや!」。今の自分にあてはめてみるとその凄さがよく分かった。誰もがそうだと思うが、商売をやるかアートをやるか悩む場面がある。それを超えると両方やらねばという気になってくる。しかしそう都合良くエネルギーは湧いてこない。出来ても「商売のみ」か「商売+苦しみのアート」がせいぜいだ。心が決まらねばこの辺りをウロウロしてしまうが、この熱量、説得力で言われたのは名指しでないにせよかなりのダメージを負うことになった。今、「海に降る」が所属機関にとっていかに救いで希望なのか、その作品へも組織へも注がれる愛情が感じられ、「ワシが作品を育てた」とだけ聞くと、この人はなんて事を言い出すんだ・・・と思うかもしれないが、それを豪語されるのも少しばかり分かったような気がした。
おはようございます。
朱野帰子さんが気配を消して後ろに立っていた。話を聞くとボクらよりも早く到着していて先に控室で待っていたそうだが、誰もその事を知らず伝えずだったため、入口ばかり見ていたボクにとっては壁をすり抜けて来られたように見えてビクッとしてしまった。というのも、朱野さんも高井さんと同じような気分だったのか、よくは分からないが、とにかく普段より目がキッとしている。普段と言ってもけっして普段を知っているわけではないが、とにかく引き締まった感じに見受けられた。控室へ移動しても落ち着きがあり、とても本番前とは思えないほどの精神状態に見えた。なぜか少し安心してPCの接続チェックをしていると、朱野PCの壁紙に、ボクのタブレットの壁紙とまったく同じものが使われていて変な汗が流れた。今日の主役は朱野さんだったが、ちょっとだけ朱野さんには合わないような演出で登壇されると、緊張感が一気にグッと増した。最初のプレゼンは朱野さんからだった。おそらく小説家として著名になられてからはスライドを使ったプレゼンなど初めてのことだったと思われる。しかしその出来栄えは素晴らしく、資料は緻密に作り込まれており、しかしある部分ではかなりアバウトな表情を見せていた。「クラゲ」の事を「内臓」と表現する彼女からは独特のネガティブな性質が空気中に放出され、檀上から放射状に拡散しながら客席全体を呑み込んでいくような、柔らかくも冷たさを持った雰囲気に支配されていった。いつか言いたかったという「三年間溜め込んだ」想いの人への打ち明け話を語り始めた際には、自ら一切の恥じらいを捨て、シルベスタ・スタローンが訓練しているというシベリアまで、姿勢を低くし、裸足で駆け抜け、背後から忍び寄り、細長い氷柱を逆手に持ち、鋭く尖った先端をスタローンの喉元へ当て、「私はここまでやるのよ、気をつけなさい」と耳元で囁くように訴えているようにも見えて、ぜんぜん関係ないはずだったボクまでそのすぐ近くで怯えながら長い時間を過ごすことになった。もちろん一番怯えていたお方はスタローン本人だったという事は言うまでもない。
ありがとうございました。
お客さん達に可能な限り感想を聞いてまわった。アンケート用紙を配ろうと思っていたが、そこまでゆったりとした空間にはならなそうだし、なんか煩わしそうだと思って事前にやめることにしていたが、それで良かったと思えた。とにかくほとんどの方が今日のトークショーに興奮されていて、しゃべりが止まらなくなっている方が多かった。もしかしたらスペシャルカクテルで悪酔いされてた方もいらしたかもしれない。というのも、ネーミングはなかなか好評で思わずオーダーされてしまった方も多かったと思うが、会場の副店長が「飲みやすいように作っておきますね、へへっ」と言ったっきり、赤い方も青い方も、主催者は中身の説明を受けていない。それから「ではそろそろ失礼します」と満足気に帰られた方を何人もお見送りしたつもりだったが、いま見送ったはずの方がまだ会場内に潜伏されていたりして、「今度こそ失礼します」というようなシュチュエーションが繰り返される事も何度かあって、まだ帰りたくない、覚めたくないんだ、といった気持ちを持て余しているようだった。ここで主催者ボク、人生初のサインを求められるという事件が発生した。相手はお嬢ちゃんで、親のパシリをされているらしき事をもにょもにょ言っていたが、相手が誰だろうとサインは求められたらするべし。勇んで書いたは良かったが、書く面を間違えてしまい、気を取り直してもう一度書いたら肝心な部分がプルッてしまい、お嬢ちゃんのダメだしは、それは過酷なものであった。それからせっかくなので、Chong Chen さんが撮った美しきスケーリーフットの写真を使用させて頂いて作ったノートがあった。それを購入された方から「このノートはデ●ノートのパクリですか?」というド直球を受け、いやいや・・・とフェードアウトしようとしたが、なんだかその人の後ろに大きな体の人が立っていて、だんだん「そうだよ それが真実なんだよ この真実には絶対誰も抗えないんだ ん?どうしたの?怖いかい?僕が」と言っているような気がしてきて膝をついた。
目が覚めるとそこは家のベッドの上だった。天井を見上げながら、さっき浅い眠りの中で見た不思議な夢は一体なんだったのだろうと、今でもふと思い出す。
ご来場いただいたみなさま、JAMSTEC・高井研さま、JAMSTEC・Chong Chenさま、朱野帰子さま、幻冬舎・前田香織さま、増子瑞穂さま、有麒堂ご夫妻、深海マザー・山田さま、素晴らしいものができました。お力を添えて頂き感謝いたします。有り難うございました。